『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見た感想です。
注意
ネタバレ、人によってはショッキングな内容、俗に言う怪文書
昨日、劇場版は絶対に劇場で見た方がいいというフォロワーの勧めで、『新文芸坐』という劇場へ行きました。
そして、アニメ全12話とロンドロンドロンドをなんとか二週間で視聴し、初の劇場版スタァライトとなります。劇場はとにかく周りのライティング(スポットライト)がすごくて、映画の魅力を最大限に楽しめた気がします。やっぱり劇場で見て良かった。
この記事を書く前に、ロンドロンドロンドの感想記事も書いたには書いたのですが、劇場版を見て公開を躊躇する気持ちになりました。そのくらい、ある種、感情の変化がありました。
ただ、最初に一言感想を言うと、「本当に素晴らしくて、自分の人生にとってとても大事な映画になった」僕はこの作品が大好きです。出会えて良かった。
黒歴史記事はこちらから(これはこれでアニメにちゃんと向き合った感想だと思います。ですが、劇場版を見た後では、この記事を消したい衝動に駆られました。戒めとして残しますが)
一話〜六話感想
https://ryu-ryu-sousaku.hatenablog.com/entry/2024/02/14/220423
七話〜十二話感想
https://ryu-ryu-sousaku.hatenablog.com/entry/2024/02/15/181733
僕はこの作品によって、ある種、自分が分からなくなってしまった部分があります。今自分は、どういう気持ちなのかもよく分からず……だからこそ、言葉にしてみます。
アニメ版と劇場版
まず、この劇場版はアニメ版で重視されていたものを、丁寧に拾い上げて作られた、とても今までのファンに対しての敬意に溢れた作品だと思っております。
劇場版では、今までの気がかりに蹴りをつける戦いがいくつかありました。それは、天堂真矢がクールなのが崩れて感情をむき出しにすること、まひるちゃんが再び華恋ちゃんへの気持ちに向き合いひかりちゃんに嫉妬をぶつける(この二人での蹴りをつける)こと、ファンがアニメを見てなんとなくスルーしていたけれど描写して欲しかったもの、そのものでした。
しかし、自分も以前記事に書いたような、アニメ版での「尊い」「素晴らしい」関係を、この劇場版は同時に否定している気もします。こう言われた気がしたんです。
「あのアニメ版で満足してるようでは、君はそこまでの人間なんだ」
事実、劇場版はファンが求めていたものを描写した先に、そのキャラクターたちの関係性や意志を、アップデートするということをしていました。この劇場版は、キリンが言ったように、観客が求めたから見せられてしまった、続きです。でも、舞台少女の続きを見せられるということは、観客の続きも突きつけられるということでした。
もう、自分たちが素晴らしいと思っていたものは『過去』で、舞台少女たちは常に変わり続けている。天堂真矢とクロディーヌのデュオレヴューで、感動してしまった僕らは、劇場版でのクロディーヌのように、それで満足してしまっていたことに気付かされる。双葉ちゃんと香子ちゃんの、追う追われる関係が素晴らしいと思っていた僕らは、劇場版で、一緒にいるために一緒にならない選択があることを知る。二人で一つなのがひかりちゃんと華恋ちゃんだと思っていた僕らは、その先の二人の気持ち、二人の変化にまで考えが行き届いてなかったことを劇場版で知る。
僕は劇場版を見て、舞台少女たちの、日々進化中! を甘く見ていたことを本当に、本当に、痛感しました。そして、それは同時に、自分自身の成長の鈍さ、人間の限界の諦め、そういう自分への正当化と怠慢の考えが根本の原因であることに気付いてしまったんです。
この劇場版は、本当にすごい作品です。これからも劇場で再演されるたび、見に行く決意をしました。ですが、あまりにすごすぎて、「このキャラクターたちに励まされたなあ。自分も頑張ろう」「この関係、癒されるなあ」そういう感情さえ、持つべきなのか迷ってしまった。あまりにも、他人事じゃなくなってしまった。自分のアイデンティティさえ、揺らいでしまった。そういう意味では、この作品はこれからの僕の人生の分岐点において、その度思い出されるある種の『軸』であり、『呪い』とも言えてしまうかもしれない。自分が逃げ出そうとした時、この作品を思い出して立ち止まるような、自問自答するような……。舞台少女であることを、苦しい道であると分かっても、望んでやまないような……。
たくさんきらめきと力をくれると同時に、夢に潜む残酷性まで伝えてくる劇場版スタァライト。
『私たちはもう舞台の上』この言葉が本当に眩しすぎて、だからこそ焦がれ、苦しむのです。作品を通して、ここまで自分自身が揺らいでしまったのは初めてでした。だけど、同時に力も貰える言葉。本当にありがとう、スタァライト……。
愛城華恋の内面
華恋ちゃんは、みんなをスタァライトしてくれる、視聴者である僕にとって、自分に元気や希望をくれる存在でした。
しかし、劇場版では、華恋ちゃんの見えにくくなっていた内面が丁寧に描かれています。と、同時に、華恋ちゃんの過去がしっかりと描かれることで、僕が華恋ちゃんに求めていた希望すら、間違ったいたのではと思いました。「ひかりちゃんの通っている学校なんて知らなかった」それが嘘であったことも衝撃的でしたが、何より衝撃を受けたのは、華恋ちゃんがボイトレに行くといって友達といたファストフード店を抜け出すシーン。
華恋ちゃん以外の周りの子たちは、進路が決まっていない。やりたいことのため努力できていない。華恋ちゃんってすごいよね、で終わる。一人だけ、「華恋にも苦しみや悩みがあるんじゃないか」と自分たちと同じだと悟ったように言った人がいましたが、それさえ所詮、華恋ちゃんにとっては有象無象。同じなわけないんです、華恋ちゃんと。だって、華恋ちゃんはひかりちゃんとの約束のため、あんなに小さい頃から演劇をコツコツ重ねてきて、ボイトレもして、エリートである学校に入ることもできた。それがなんで、僕らと一緒と言えるんですか。でも、じゃあ華恋ちゃんすごいよね、って言ってるだけの人たちの方が良いかと言うと、そんなわけない。自分はすごくないの裏返しのような発言であるし、人をすごいと評価するのはその人を理解しようとしてないのと同義であるから、結局、華恋ちゃんにとって言ってしまえば「たいしたことない人たち」なんです。フォロワーに言われて気付きましたが、華恋ちゃんは急いでる風に店を出たけれど、その割にはのんびりしている。つまり、意図的にあの場を離れた。そりゃあそうです。華恋ちゃんにとって、何より大事なのはひかりちゃんと演劇で、同じ舞台で輝いてる舞台少女ならまだしも、舞台少女から遥か遠くの「普通の女の子の幸せ」(劇中のセリフ)を享受している人間に、興味なんかあるはずないんです。
じゃあ、これの何が問題なんでしょう。
問題に決まってます。だって、少なくとも僕は、華恋ちゃんというより「この周りの人たち」と同じ人間なんですよ。何となく生きてきて、やりたいことがあっても本気で取り組むことはできなくて、舞台に上がる恐怖から逃げ続けて、そんな僕は、華恋ちゃんが(本人にはそのような認識はないと思われるが)見捨ててしまう対象。同じ舞台少女ではなく、観客として見てしまう対象なんです。
もちろん、観客も重要です。キリンが野菜となり栄養となる、ラストシーンはキリンが燃料となったのがきっかけで始まる。だけど、華恋ちゃんに憧れた人たちならば、舞台少女の方になりたい人たちならば、この描写はとっても苦しいはずなんです。
華恋ちゃんは、自分に希望をくれる存在だと思っていたのに、実際は、見捨てられていたのかもしれない。彼女たちが進んでゆく中で、自分は一生舞台には立たなくて、どんどん置いてかれるかもしれない。彼女たちが死せる舞台少女にならずに進めた劇場版に対し、僕たちはそもそも最初から死んでる舞台少女なのかもしれない。
この映画は、そんなことを、僕に感じさせてしまったんです。
自分が創作に向き合う感情
スタァライトの感想の場で、自分語りは最悪なので、ここはさっさと終わらせます。
僕も一応、小説や詩などの文章を書いております。※この「一応」という言葉に、胸を張れていないニュアンスが出てますね……。
自分は、創作が好きで、苦しい時は創作に救われてきて、時には自分の大好きなものへの勝手な恩返しとして、自分もその道を志したり、そのくらい創作に他人事ではない生き方をしてきました。これからもしていきます。
だけど、じゃあ全てを投げ打って、その創作に取り組んだかと言えば嘘になる。舞台少女たちのように、ずっと小さい頃から目指してきたかと言えば嘘になる。それは、舞台に立つこと、観客を意識すること、努力をし続けること、あらゆる苦痛から逃げ出した結果でした。
とは言えども、鬱のような状態にはなったことがある(今も完全には回復したかはわからない)くらいには、悩んできてはきました。でも、だからこそ、逃げ癖がついてきたのを自覚している。
ある日から、死にたいと思い始めました。でも、色々あって、最近は前向きになれた気がします。アニメだってこうして見れてるし、人に会うこともできるし、鬱回復後に見られるであろう、頭の回転が遅くなること、やけに眠くなってしまうこと、にもある程度自分の中で向き合うことができるようになったし、確かに、少しずつだけど、前を進めてるんです。
だけど、それだけじゃダメで。死にたいという気持ちが湧き上がることはまだあります。でも、それでも死なない理由は、周りの人を悲しませたくないからだと、自分は思ってました。でも、スタァライトを見て、こういう可能性もあるのではないかと、ふと思った。「自分は死にたいと思うことがある。でも、舞台少女として死んでしまうことだけには明確に恐怖がある。何か成し遂げたい。何か本気で取り組みたい。人生で輝く瞬間が欲しい。舞台で輝く自分、舞台少女としてまだ生まれてもないのに、ここで人生を終わらせちゃダメだ」って。だから僕は、今も死なずにいるのではないか。そう思ったんです。なんて、周りのことを考えない、無責任なやつだなとは自分で思いますが……承認欲求や顕示欲とはまたちょっと違う、舞台少女として生きたいという渇望があると。
なんとなく、惰性のまま、だらだらと創作を続けてきた自分だが、それこそ先細るしかない死んでゆく舞台少女なのでは? そう突き付けられたとき、初めて自分は自分の心の中の舞台少女への渇望を自覚できたんです。あとは、これと向き合って自分を進化させるしかない。
この作品を見て、そんなことを強く感じてしまったのです。
あとがき
舞台人として死にたくない。そのためには、何度も私を再生産しなければいけない。成長し続けなければいけない。舞台に立つ怖さがあることを知って、それでも立ち続けなければいけない。(普通が難しい時代であることを顧みても)普通になって幸せになる生き方もある。だけど、自分は表現者タイプだと思った。かつての文豪のように自ら死を望むことは、絶対に避けたいけど、それでも、命を燃やして生きる選択肢を選んでみたい。そうじゃないと、きっと舞台少女として死んでゆく人生になる。それは、いつか笑い話になるだろうか。笑い話になれたなら、幸せかもなあ。でも、それはきっと、寂しいだろうなあ。「今はまだ、でもいつかは」と言った、劇場版の純那ちゃんのような言葉も通じない。僕は、劇場版を見てから、こんな複雑な気持ちが、これ以上に言葉では表現できない気持ちが、襲ってきていて、焦りを感じている。急に、自分がもっと嫌になって、空っぽになってしまった気がする。華恋ちゃんは、空っぽなら次の舞台に行こうとひかりちゃんに言われたけど、僕はまだ、華恋ちゃんのような最初の舞台少女になることから始めなくちゃいけない。でも、どうすれば良い。分からなくて苦しい。
劇場版スタァライト、素晴らしい作品でした。でも、今の僕には眩しすぎて、舞台の上に立つ怖さも自覚的になり、改めて自分を見つめ直すきっかけにもなった。自分の情熱の根拠を、もう一度考えたいと思う。このままの気持ちでは、ちゃんとした創作ができない不安がある。
スタァライトを見てから、隙あらば、(例えば無為に時間を過ごしてしまいそうなとき、自分の人生を達観してしまいそうなとき、好きであることを妥協してしまいそうなとき)自分の人生からふと逃げようとする度、ばななちゃんの真顔が浮かぶようになってしまった。このままでは、ばななちゃんに切られてしまう。僕は華恋ちゃんに見捨てられたくないって思った。舞台人として生まれて、死にたくないって思った。それは元々存在する、一般的な『命』とはまた違ったもの。
華恋ちゃんから、舞台から、舞台少女から、死にたくない・置いてかれたくない・見捨てられたくない。そんな感情があります。死にたくない情熱を抱えて。どうか、この感情が一過性でないことを……。
劇場にて、撮った写真。
※加筆
正直、この記事の内容には納得できていない。
あまりに自己的だし、この映画には、たくさんの希望ももらったはず。その側面を語れていない。
次劇場で再度上映されたら、必ず観に行く予定なので、そこでもっと、この映画の魅力を語る記事を書きたい。
そのためには、この期間の間に、この映画に背中を押してもらうほど、自分も努力しなければならない。
※加筆その2
勢いで書いちゃったけど、一晩寝て起きたら、もう本当、なんてものを書いてしまったんだってなる。物書きは、自分を曝け出して身を削らないと文章を書けないのだろうか……。
この文章で嫌な思いをした人がいたら本当に申し訳ないって思う。だけど、自分への戒めもあって削除はできない。ここまで、自分が追い込まれたこと、そして、変わらなきゃと思ったこと。それは嘘じゃない。